社長 小椋康祐ヒストリー
「挫折からの挑戦」
私の地元、平塚には競輪場があり幼少期から父親に良く連れて行って貰い、コースを颯爽と走る選手達に憧れていました。
父親の薦めもあり18歳で競輪選手になる事を目指して師匠に弟子入りをしました。
そこから6年間、朝から晩まで毎日厳しい練習に励み、200kmのロード練習、延々と続く山間での練習。
カーブを曲がり切れず崖から転落した事も。
しかし思う様な結果が出ず後輩にどんどん越されていき、24歳が競輪学校に入れるタイムリミットだった為、試験に受かる事が出来ないまま挑戦が終わりました。
あの頃の悔しくて情けない気持ちは今でも忘れられません。
そこからは特にやりたい仕事も無かったのですが、その頃父親が機械加工の仕事をしていたので手伝いはじめ、案外向いているのかも。と思い、技術や知識を深める為に違う会社に入社し結果的に13年間サラリーマンをしました。
その間に、父親と一緒に会社を興すという夢ができ、何の親孝行もしていないからせめて楽をさせてあげたい、その想いで頑張っていました。
しかし、ある日突然、父親が仕事中に倒れ救急隊が駆け付けた時には間に合わず帰らぬ人となりました。
競輪選手になる事も父親と一緒に会社を興す夢も叶わずショックのあまり何も手に付かなくなり、しばらくは無気力な日々が続きました。
沢山悩みながらも、このまま落ち込んでいても何にもならない。
やっぱり一人でも会社を設立したい。と自分を奮い立たせ、それから父親の知り合いや仲間、色々な人が応援をしてくれて個人事業主としてオグラ精工を始める事ができ、そこから4年で夢だった法人也をし、社員、パート、取引先と関わる人が増えていきました。
競輪選手にはなれませんでしたが、あの時の厳しい練習に耐えた事が会社を存続する上での体力と気力の糧になっている事は、今では有難いと思えます。
まだまだ夢半ばで、一人だと何の才能も勇気もないですが、こんな自分についてきてくれる人たち、関わってくれる人を大切にする覚悟は人一倍あります。少しでも私と関わって良かったなと思ってもらえるような仕事をしていきたいと思っています。
長文、読んで頂きありがとうございました。